創作小説 ホールデンに憧れて ④

九月も半ばを過ぎた頃、翔太郎は小説を書いていた。サークルの活動で使う作品で、締め切りが迫っていた。午後の三時を過ぎた頃、里見から電話がかかってきた。スマートフォンを手に取ると、震える声が聞こえてきた。
「翔太郎……」
彼女はなにか呟いたが、声がかすれてよく聞き取れなかった。
「どうしたんだよ」
「晃平が……」
里見は嗚咽を漏らしていた。
「車に轢かれたって……」

里見の話によると、晃平は野球部の練習の帰り道、自転車で横断歩道を渡ろうとしたところで、左折してきた乗用車と衝突した。両足をタイヤに巻き込まれて、頭を強く打って意識不明の重体に陥った。
彼は三日間集中治療室に入った。四日目に意識を回復し、面会の許可が下りたので、翔太郎と里見は郊外にある総合病院に足を運んだ。病院のロビーで落ち合った里見は泣きそうな顔をしていた。
晃平は四階の個室にいた。頭に包帯を巻き、両足を天井から吊り下げられていた。翔太郎たちが入ると、疲れた笑顔を二人に向けた。
「晃平」
ベッドの側に立って、翔太郎は彼の名前を呼んだが、そのあとの言葉が出てこなかった。晃平は彼の顔を見上げた。
「命だけは助かったよ」
里見は泣き出して口元を覆った。
「完治しても、野球を続けるのは難しいってさ」
自分の両足を見つめながら晃平は言った。その時の彼の表情を、翔太郎は一生忘れないだろうと思った。

晃平が自殺したのはそれから数日後だった。食事の時に使ったナイフで手首を切って死んでいたのが見つかった。一度では動脈が切れなかったらしく、左手首にはいくつもの傷跡があった。翔太郎は葬儀を欠席した。

葬儀の三日後、翔太郎は里美に誘われて大学の近くの喫茶店にいた。授業を抜け出して店に行くと、奥の席に里見は座っていた。
「どうして葬儀にこなかったの」
翔太郎が席に着くと、里見は切り出した。
「どうしてって……」
晃平の葬儀の日、翔太郎は自宅にいた。小説を書こうと思ったが集中できず、窓の外を見つめていた。
「悲しくないの」
「悲しいよ、おれだって」
翔太郎は左手首に目をやった。今日も気温は二十五度を超えたが、黒い長袖のシャツを着ていた。袖口からかすかに見える手首には、五センチほどの傷跡がある。
更に里見が詰問してくると思ったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。テーブルの上を見つめて押し黙っている。コーヒーが運ばれてきたので、翔太郎は一口飲んだが、味はしなかった。店内はほとんど満席で、話し声があちこちから聞こえた。
「律子さんもきてたよ」
「そっか……」
店内のざわめきが翔太郎の耳に入ってくる。里見は何も入っていないカップを見つめながら切り出した。
「わたしね、晃平が事故にあって野球ができなくなったって聞いた時、悲しい反面、少しだけ嬉しかったっていうか、安心したの。晃平は野球の才能に恵まれてて、野球でお金がもらえるかもしれないレベルまでいってたじゃない。すごいなって思いながら、嫉妬してる自分もいた。わたしは音楽の才能がないのに、なんで晃平は自分の好きなことで成功してるんだろうって。晃平のことは好きだったけど、妬みの方が強かったかもしれない。事故にあって野球ができなくなったって知った時、晃平がわたしたちと同じ世界に来てくれたみたいで嬉しかった。でも、そんな風に考える自分が嫌にもなった……」
里見は涙を流していた。肩を震わせている彼女を、翔太郎は見つめていた。律子とデパートで話した時、里見と同じような気分になったことを思い出していた。
「わたし、もう音楽は諦める」
涙をぬぐいながら、里見は呟いた。自分自身に言い聞かせるような口調だった。

会計を済ませて二人は店を出てから、彼女は翔太郎に言った。
「もう会うことはないかもしれないね」
翔太郎は彼女の横顔を見ていた。とても遠くにいるように感じた。
「もしかしたら、一番才能があるのは翔太郎なのかもね。同人誌を出して、サークルの中でも一目置かれてるんだったら、もしかするとプロになっちゃうんじゃない?」
里見は微笑んだ。翔太郎は本当にもう会えなくやるような気がした。
またね、と言って歩いて行く里見の背中を、翔太郎は見つめていた。

里見と別れたあと、翔太郎は自宅に戻った。部屋のドアを閉め、窓の外を眺めた。見舞いに行った時の晃平の顔を思い出していた。悲しみを孕んだ笑顔。彼がリストカットしたことを思い出すと、左手首の傷が疼いた。
通学に使っている黒い鞄の中から、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を取り出した。表紙は黄ばんで、隅が破れている。翔太郎は万年筆を手に取り、ペン先を左手首に突き立てた。

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