創作小説 ホールデンに憧れて ①

ホールデンに憧れて

 

 

「『母子家庭なの、わたし』美香の言葉は、二人のいる小さな空間に響いた。陽介ははっとしたが、彼が何か言うよりも早く、美香は語り出した。『小学校三年の時にお母さんとお父さんが離婚して、それからずっとお母さんと二人だったの。お母さんは中学校の先生で、三年生の担任を持った時なんかは、進路指導で夜の九時や十時まで帰ってこなかった。わたしは陸上部の活動があったけど、学校の部活だから秋から冬にかけては四時半くらいで練習が終わってた』」
「なに? なんでこのタイミングで自分語りを始めたの?」
里見の朗読を聴きながら、律子は呟いた。本人は独り言のつもりだったが、翔太郎の耳にははっきりと聞こえた。翔太郎は彼女をにらんだ。二人の様子を見て、里見は朗読を中断したが、すぐに手元の原稿用紙に視線を戻した。
「『家に帰っても誰もいないから、一人でテレビを見たり、漫画を読んだりして、お腹が空いたら冷凍食品やコンビニ弁当を食べてた。お母さんは部活の顧問も持ってたから、土日も家を空けてた。仕事が大変だったのか知らないけど、帰ってきてから一人で泣いてたこともあった』」
「ってた、ってた、って、なんか耳につくなあ」
翔太郎は立ち上がった。椅子が床と擦れる音がした。
「もういい里見、朗読は終わりだ」
里見が持っていた原稿用紙をひったくって、鞄にしまった。あっけにとられていた里見だったが、やがて肩をすくめた。
「あのさあ、自分の作品を朗読してほしいって言ったのは翔太郎でしょ。やらせといてそれはないんじゃない?」
「お前には申し訳ないけど、邪魔が入ったんだ」
律子はにやついていた。桜の花びらをあしらったピアスをして、化粧をしている。ベージュのワンピースを着て足を組んでいる姿は、制服姿で化粧をしていない里見と比べると大人びていた。
「律子さん、茶化しに来たんなら帰ってもらえませんか。ぼくは本気で創作してるんですよ」
「本気で創作するのは大いに結構なんだけど、あんたの作品に出てくるこの女の子、美香だっけ。なんでこのタイミングで自分の過去を語り始めるの?」
「それは……美香と陽介が母子家庭で育ったっていう共通点があって、二人とも普通の幸せは享受できない存在だっていうことを表現したくて……」
「それにしても唐突だし、長いよね。この場面って、二人で遊園地に行って観覧車に乗ってるところでしょ。そんな時に自分語りしてくる女って、めんどくさいだけだと思うけど、どう、里見」
律子に促されて、里見も口を開いた。
「翔太郎の小説って、登場人物が自分の過去を語るばっかりで、一向に話が進まないし、なにも起こらないんだよね。普通、物語っていうのは、なにか出来事があるじゃない。いじめとか、恋愛とかさ。翔太郎の作品にはないんだよね、それが。正直、すごく退屈」
「あのな、なにも起こらない小説こそが真の小説なんだよ。真理は日常に宿るっていうのがおれの持論でな。本来の日本の小説は、日記みたいな私小説なんだよ。非現実的なことを主題にした話っていうのはエンタメで、ハリウッド映画を観ればよくわかるだろ。宇宙人の襲来とか、ロボットの戦いとか。そういう非現実に触れることで大衆は」
「もういい、わかった。とにかく、あんたの小説はつまらないの」
バイトがあるから、と言い残して、律子は出て行った。椅子と机と本しかない部室に、翔太郎と里見は残された。
「まあ、わたしはともかく、律子さんが言うことは説得力があると思うよ」
肩を落としてうつむきながら、翔太郎は一年前の文芸雑誌に載っていた律子の名前を思い出していた。新人賞の最終選考まで残り作品名と共に掲載された彼女は、学校中で話題になっていた。
「律子さん、大学の創作サークルで書いてるんでしょ。よくわからないけど、文学部の創作好きな人が集まるんだから、きっとうちらなんかとはレベルが違うんだよ。律子さんの大学、偏差値高いし」
「偏差値と作品の質は無関係だぞ。中卒でプロの小説家になってる人だっているんだし。それに、律子さんは外国文学が専攻だろ。外国文学がなんだ。日本文学が最高の文学だ」
「じゃあなんでサリンジャーを読んでるの?」
翔太郎は足元に置いた通学鞄に目をやった。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の表紙がのぞいている。
「サリンジャーは例外だ」
里見は鼻で笑って、出て行った。

 

教室で翔太郎は晃平に話しかけられた。
「里見に聞いたぞ、また律子さんにやられたんだってな」
日焼けして坊主頭の晃平に声をかけられると、翔太郎は自分の細い腕や白い肌がひ弱に見えて、上手く答えることができなかった。
「あ、ああ……好き勝手言われたよ」
「その小説って、前におれに見せてくれたやつか? たしか、『幸福の器』っていう題名の」
「そうだよ」
「おれは良かったと思うよ。陽介っていうのが主人公で、ヒロインが美香だったよな。二人とも母子家庭で、コンプレックスを持ってるんだよな」
「よく覚えてるな」
晃平が登場人物の名前まで覚えていてくれて、翔太郎は頰が緩むのを抑えられなかった。晃平は分厚い手で頭をさすっている。
「それくらい面白かったんだよ。里見と律子さんは厳しいこと言うかもしれないけど、おれはお前には文才があると思うよ」
翔太郎は涙が出そうになって、手を伸ばして握手を求めた。大袈裟だな、と晃平は苦笑した。

 

次の日の文芸部でも里見は翔太郎の作品を批判した。別の作品の講評でのことだった。
「この作品もさ、なんていうか、置いてけぼりなんだよね、読者を。勝手に突っ走って、あっという間に終わらせる。全然面白くない」
「何でもかんでも説明すればいいってものじゃないんだよ。そもそも表現するってことは、何を書くかじゃなくて、何を書かないかの方が……」
「もういい、うるさい」
里見はため息をついた。
「翔太郎、この前応募した文学賞の結果はどうだったの」
「予選落ちだったよ……」
「才能ないんだよ、翔太郎は」
「晃平は、おれの小説を読んで、才能があるって言ってくれたぞ」
絞り出した声は震えていた。
「晃平は、優しいから」
翔太郎は拳を握りしめた。
「律子さんでさえプロにはなれないんだよ。翔太郎はまだ他にも書いてるみたいだけどさ、この前のテストの順位はどうだったの」
成績の話を持ち出されて、翔太郎は唇を噛んだ。三年の夏休み前になると、部活を引退する生徒もいて、受験に対する意識が高まってきた。中には去年の秋から予備校に通う者もいる中で、翔太郎は後れを取っていた。休み時間に開くのは芥川の短編集で、雑誌は文芸雑誌ばかり読んでいた。クラスで話題になる大学の名前や偏差値の話には全くついていけず、成績も悪くなっていった。
「小説書いてる暇があったら勉強すればいいじゃない。もうみんな大学受験の勉強してるよ。色々な小説を書いてるみたいだけどさ、結局どうしたいの、翔太郎は。プロになりたいわけ?」
「プロにもなりたいけど、それ以上に大切なことがある……」
「なに、大切なことって」
少しの間をおいて、翔太郎は語り出した。
「この世の中には、零れ落ちた人たちがいるんだ。いじめにあってる人や、戦争で家を追われた人。幸せにはなれなかった人たちがいる……。そういう人たちにとっての希望になるような小説を書きたいんだよ、おれは。零れ落ちた人たちを受け止められるような、そんな小説を書きたい」
「サリンジャーの受け売りじゃない」
里見は笑った。
「とにかく、才能のないことに現を抜かしてないで、勉強した方がいいんじゃない?」
「ちょっと待てよ」
部室を出ていこうとする里見の背中に、翔太郎は呼びかけた。
「最近は音楽活動はどうなんだよ」
薄笑いを浮かべながら言うと、里見は顔をしかめた。
「翔太郎には関係ないでしょ」
「関係あるだろ。人に向かって才能がないとか言いやがって。動画の再生回数はどうなんだよ。相変わらず五百回がいいとこか?」
里見は肩を震わせていた。。涙目になっている彼女を見ていると、翔太郎も泣きそうになってきた。乱暴にドアを閉めて、彼女は部屋を出て行った。一人残されて、翔太郎は立ち尽くしていた。

 

放課後に文芸部の部室に行くと、律子がいた。
「また来たんですか」
「バイトが休みだから寄ってみたの。今日は講評とか素読はしないの?」
「人があつまらないんです。ぼくもすぐ帰りますよ」
翔太郎は椅子に座った。律子は彼の正面の席に腰掛けて、マニキュアを塗った爪をいじっている。
「最新作はできた?」
律子は尋ねた。
「今書いてるところです」
「どんな話?」
「児童養護施設で育った女と、虐待を受けた男が恋愛する話です」
「あ、そう」
律子はスマートフォンを取り出した。翔太郎は舌打ちをした。律子は上目遣いに彼を見たが、すぐに視線を戻した。
「大学の創作サークルって、どんなことするんですか?」
翔太郎が尋ねると、律子はスマートフォンを机の上に置いた。青いアイシャドウと赤い口紅が、顔立ちを大人びて見せていた。
「この文芸部と変わらないよ。作品の回し読みをしたり、批評をしたりするの」
「レベルは高いんですか?」
「レベルって言われてもね。大学の文学部って言ったって、みんな文学好きなわけではないよ。むしろ遊びたくて適当に学科選んで入ってきた人の方が多いくらい。うちの学科は偏差値低いし。サークルで読む作品も、面白いのもあるけど、ひどい内容のやつもあるし、みんな活動が終わった後の飲み会を楽しみにしてるからね」
「里見が、大学の文学部でやってる創作サークルなんてレベルが違うんじゃないかって言ってたけど、そうでもないんですね」
律子は苦笑した。
「里見がそんなこと言ってたの? あの子、昔から考えすぎっていうか、ちょっとイタイよね。まだ歌手志望とかいって色々やってるらしいし」
里見は中学時代から高校生のバンドグループに参加して音楽活動をしていた。高校に入ってからもボイストレーニングに通い、土日になると路上でライブをしたり、動画サイトに自作の曲を投稿したりしていた。投稿した動画の再生回数はどんなに多くても五百回前後だった。翔太郎は何度か彼女の動画を見たことがあるが、歌唱力も歌詞も平凡で、すぐに飽きた。彼女は学年でも五本の指に入る成績だったので、翔太郎は音大の受験を勧めてみたことがあった。彼の言葉を聞いて、彼女は目を伏せて黙り込んでしまった。その時の彼女の表情と、動画サイトの再生回数を見て、翔太郎は音大の話をするのはやめた。
「ごめん、あんた、あの子のこと好きだったね」
「いや、別に気にしてないですよ。あいつが歌手になるのが難しいってことは、僕の目にも明らかですから」
「それはあんたの作家志望にしても同じでしょ」
翔太郎は律子を睨んだ。怒りと同時に、里見を悪く言ったことに対する罪の意識と恥が湧き上がってきた。しばらく沈黙が続いた。
「律子さんこそ、晃平とはどうなんです? 野球部、勝ち上がってるみたいですけど、応援には行ってるんですか?」
律子は答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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